親友がこんなメールをくれた。
言及されている記事「ネトゲのキャラクターは死ぬべきである」は多大な反響を頂き、何百ものレスも頂いている。にもかかわらず、俺はその中で長年の親友であるMの指摘が一番鋭いと感じてしまった。これは衝撃的だった。
Mの指摘は正しい。あの記事に書いた「持続性の高いソーシャル・システムを作るためには、システムの中のあらゆるものが死ななければならない」という考え方を、ひとつ上の階層に適用すればそうなるはずだ。つまり、
となっているので、「キャラクターを淘汰する」ことで「ネトゲが生き延びる」ようにすれば、「ネトゲが淘汰されなくなる」ことによって「ネトゲ業界の新陳代謝が弱まって死ぬ」はずだ。つまり、淘汰の階層がひとつ上がるだけの話なのである。だったら、ネトゲの寿命なんて短いほうがいいのかも知れない。
もちろん、この理論をさらに延長すれば、「ネトゲ業界が衰退すれば、その上の階層のゲーム業界全体が活性化する」というような話になるので、そこまで考えるなら、ネトゲ業界が衰退することも悪いかどうかはわからない(究極的には「世界のどこを淘汰し、どこを維持するのが最善か」という話になる)。でも俺はそこまでは考えていなかったので、Mは俺の考えから抜け落ちていた点を見事に見抜いたと言える。「ネトゲは死ぬべきである」というタイトルも核心を突いている。
他にも似たような指摘をしてくれた人はいるけど、俺にとってはMの指摘が一番衝撃的だった。これは第三者が見ても共感できないかも知れない。客観的に見れば他の指摘とは微妙な違いしかないと思う。でもその微妙な違いが俺にとっては決定的で、そこを突いてきたのがMだったことは驚きだった。
Mは小学校の頃からの親友で、頭がいいことは当然知っていた。Mは俺みたいに文章を発表することには興味がないらしいけど、文章が上手いのも知っていた。実は、俺がこうやって人に見せる文章を書くようになる前は、俺が書く文章のほとんどはMに当てたメールだったし、このブログも最初はMしか見ていなかった。そういう時にはMはちゃんと返事をくれたし、文章の量も質もクオリティが高かった。だから、能力的に不思議があるわけじゃない。
でも、この文章を読んでレスをくれた人の中には、他にも頭のいい人がうじゃうじゃいるのである。天才としか言いようがないぐらい切れる人もたくさんいる。はてなブックマークに何百ももらったコメントの顔ぶれを見ただけでも一目瞭然だし、SNSでもすごい人(例:fromdusktildawn氏)がたくさんレスをくれた。挙げ句のはてには師匠が記事まで書いてくれた。
でも、俺にとって一番鋭い指摘をしたのはMだった。Mに攻撃的な意図がまったくないことは分かりきってるし、攻撃と正反対のスタンスなのは文面からも明らかだと思う。俺に宛てたメールだから、「みんなの前でいいことを言ってやろう」的な動機もまったく働かなかったはずだ。それでも、一番鋭く問題点を突いたのはMだった。
何が言いたいのかというと、Mがなみいる天才たちの頭をひとつ抜け出す鋭い指摘をしたのは、おそらく客観的な能力の問題ではないということだ(もちろん彼の能力は客観的に見ても高いけど)。Mは俺の長年の親友だからこの指摘ができたのである。長い付き合いで、俺の考え方とか、バックグラウンドとか、文章の書き方とか、いろんなものを熟知しているから、俺が何を見落としているのかが分かったのである。そうとしか考えられない。
俺はつねづね、客観的な能力とか、個としての能力というものはどうでもいいと思っていて、学歴とか、学力とか、IQとかいったものは徹底的に軽視してきた。なぜなら、人間はその人だけに与えられた運命としての固有の環境に根を張って生きるものであり、その環境の上で能力を発揮できるか、ということこそが本当に重要なことだからである。あえてそこから切り離して評価することに、俺は意味を感じない。
そして、他人を評価するときにも「自分にとってどういう人か」ということが重要であり、一般的な評価はどうでもいいと思っていた。他人にとって、あるいは客観的に見てどうであれ、俺にとって価値がある人は価値があるのである。どんなに凄い人でも、俺にとっては無価値であり得る。逆に、誰からも嫌われるような凶悪な犯罪者が、俺にとっては最良の友人になることもあり得る。
たとえば、AとBという人がいるとする。普通の人の能力を100とすると、Aは70、Bは60の能力しかないけど、AとBが組んだ場合は、長年の付き合いや相性の良さによって、二人とも120相当の能力を発揮するとしよう。そしてAとBは一生パートナーとして組んでやっていくものとする。さらに、AとBは地元の埼玉県越谷市で働く場合、それぞれ30ほど能力の上積みがあって、二人はずっと地元にいるものとしよう。
さて、このAとBは無能だろうか。テストなどによって客観的な指標を求めれば、能力値は70、60なので「無能」という評価が下されるはずである。でもそれに何か意味があるだろうか。俺は明らかにどうでもいいことだと思う。何の意味もない評価だと思う。なぜなら実際には、二人とも150相当の高い能力を発揮して生きていくからである。そして、AとBが客観的に見てどうであれ、AにとってBは明らかに価値がある人だし、BにとってのAもそうである。
もし自分の環境を捨てて生きていくならば、客観的な能力と指標が全てである。親兄弟や友人、地元などのしがらみを捨てて、世界を股にかけて大企業を転々とするような生き方をするとしたら、学歴、資格、IQ、協調性などといった客観的なものがもっとも重要になるかも知れない。
でも多くの人は、自分に与えられた固有の環境からそれほど離れることはないはずだ。誰とも違う自分だけの人間関係とか、地元とか、いろんなしがらみを抱えて生きていくのである。そういう大多数の人にとって、こうしたしがらみを取り払った「客観的な能力」にどれほどの意味があるだろうか。
運命として人に与えられた環境は、誰とも異なる固有のものであり、その人の個性のようなものだ。それは自分の個性ではないと感じるかも知れないけど、自分だけが持っているものであることに変わりはない。それが生物学的な運命であれば「個性」と呼び、社会的な運命であればそう呼ばないのかも知れないけど、本質的な違いはない。それは世界中の誰とも異なる、その人だけに与えられた運命であり、固有性である。
有能そうに見えても大したことを成さない人がいる。こういう人は自分の運命、つまり自分に与えられた環境の固有性を生かすのが下手なんだと思う。客観的なテストをすればその人は有能に見えるかも知れない。でもこの人は実際には大したことを成さないのだから、本質的な意味で無能そのものである。
凄さというものは目に見えるとは限らない。どう見てもパッとしないし、面白いことも言わないし、どんな知能テストをやってもしょぼい結果しか出さないけど、仕事はできる、というタイプの人はたしかに存在する。この人は、自分の環境から切り離された個人として見たら無能なのかも知れないけど、その環境に結びついている限りは有能である。たぶん、知人・友人のネットワークを使うのがうまかったり、一般性がなくてローカルだけど有益な知識をたくさん持っていて、それを生かすのが得意だったりするのだろう。世の中には確実にこういう人がいる。俺みたいに言うことだけは達者な奴が、実際に仕事をして価値を生み出せるタイプの人間かは分からない。
新約聖書でもキリストがこう言っている。
だから俺は、結果を見て人の能力を判断することが多い。ダメそうに見える人でも結果を出しているなら、それは凄さが見えにくいだけなのだと判断する。結果には人が思っているほど偶然の要素は入ってこないものだと思っている。
さて、話がダラダラと長くいろんな方向に飛んだので、最後に俺が言いたかったことをまとめてみる。
俺はネットのおかげですごい人や有名な人とたくさん知り合いになれたけど、これからもずっと古い友人や親兄弟を大事にして生きていきたいと思う。前からそう思ってはいたけど、これが正しいことだと改めて教えてくれたMに感謝したい。
ネトゲは死ぬべきである
> ネトゲのキャラクターは死ぬべきである
> http://blog.pettan.jp/archives/50638552.html
面白かったよ。
以下読んだ感想。
キャラクターが死なないことで、システムの硬化が
進みゲーム自体の死が早まる。
キャラクターが死ぬことによって新しいユーザが
入りやすくなり、ゲームの新陳代謝を上げてゲーム
自体の寿命が長くなる。
というわけで、キャラクターが死ぬことによって、
寿命が長くなった人気のネトゲがいくつか誕生する。
そうすると寿命の長いネトゲが居座り続けることに
なり、新規のネトゲが参入しづらくなる。
だって新しくネトゲ作ったのに、ユニークユーザ数
1000万のゲームがうじゃうじゃいれば、ユーザ確保が
困難なのはあたりまえだ。
そしてネトゲ業界(?)の死が早まる。
まぁようするにスケールの問題なんじゃないかな。
キャラクターの死によって寿命を延ばすネトゲのように、
ネトゲそれ自体の死によって寿命を延ばすネトゲ業界。
みたいな。
人気ゲームの続編ばっかりになってきて衰退しちゃう
ゲーム業界、みたいな。
でも1つのゲームで長く遊べれば、次の探す手間が
かからなくていいよね!(>_<)
言及されている記事「ネトゲのキャラクターは死ぬべきである」は多大な反響を頂き、何百ものレスも頂いている。にもかかわらず、俺はその中で長年の親友であるMの指摘が一番鋭いと感じてしまった。これは衝撃的だった。
Mの指摘は正しい。あの記事に書いた「持続性の高いソーシャル・システムを作るためには、システムの中のあらゆるものが死ななければならない」という考え方を、ひとつ上の階層に適用すればそうなるはずだ。つまり、
キャラクター < ネトゲ < ネトゲ業界
となっているので、「キャラクターを淘汰する」ことで「ネトゲが生き延びる」ようにすれば、「ネトゲが淘汰されなくなる」ことによって「ネトゲ業界の新陳代謝が弱まって死ぬ」はずだ。つまり、淘汰の階層がひとつ上がるだけの話なのである。だったら、ネトゲの寿命なんて短いほうがいいのかも知れない。
もちろん、この理論をさらに延長すれば、「ネトゲ業界が衰退すれば、その上の階層のゲーム業界全体が活性化する」というような話になるので、そこまで考えるなら、ネトゲ業界が衰退することも悪いかどうかはわからない(究極的には「世界のどこを淘汰し、どこを維持するのが最善か」という話になる)。でも俺はそこまでは考えていなかったので、Mは俺の考えから抜け落ちていた点を見事に見抜いたと言える。「ネトゲは死ぬべきである」というタイトルも核心を突いている。
他にも似たような指摘をしてくれた人はいるけど、俺にとってはMの指摘が一番衝撃的だった。これは第三者が見ても共感できないかも知れない。客観的に見れば他の指摘とは微妙な違いしかないと思う。でもその微妙な違いが俺にとっては決定的で、そこを突いてきたのがMだったことは驚きだった。
Mは小学校の頃からの親友で、頭がいいことは当然知っていた。Mは俺みたいに文章を発表することには興味がないらしいけど、文章が上手いのも知っていた。実は、俺がこうやって人に見せる文章を書くようになる前は、俺が書く文章のほとんどはMに当てたメールだったし、このブログも最初はMしか見ていなかった。そういう時にはMはちゃんと返事をくれたし、文章の量も質もクオリティが高かった。だから、能力的に不思議があるわけじゃない。
でも、この文章を読んでレスをくれた人の中には、他にも頭のいい人がうじゃうじゃいるのである。天才としか言いようがないぐらい切れる人もたくさんいる。はてなブックマークに何百ももらったコメントの顔ぶれを見ただけでも一目瞭然だし、SNSでもすごい人(例:fromdusktildawn氏)がたくさんレスをくれた。挙げ句のはてには師匠が記事まで書いてくれた。
でも、俺にとって一番鋭い指摘をしたのはMだった。Mに攻撃的な意図がまったくないことは分かりきってるし、攻撃と正反対のスタンスなのは文面からも明らかだと思う。俺に宛てたメールだから、「みんなの前でいいことを言ってやろう」的な動機もまったく働かなかったはずだ。それでも、一番鋭く問題点を突いたのはMだった。
何が言いたいのかというと、Mがなみいる天才たちの頭をひとつ抜け出す鋭い指摘をしたのは、おそらく客観的な能力の問題ではないということだ(もちろん彼の能力は客観的に見ても高いけど)。Mは俺の長年の親友だからこの指摘ができたのである。長い付き合いで、俺の考え方とか、バックグラウンドとか、文章の書き方とか、いろんなものを熟知しているから、俺が何を見落としているのかが分かったのである。そうとしか考えられない。
俺はつねづね、客観的な能力とか、個としての能力というものはどうでもいいと思っていて、学歴とか、学力とか、IQとかいったものは徹底的に軽視してきた。なぜなら、人間はその人だけに与えられた運命としての固有の環境に根を張って生きるものであり、その環境の上で能力を発揮できるか、ということこそが本当に重要なことだからである。あえてそこから切り離して評価することに、俺は意味を感じない。
そして、他人を評価するときにも「自分にとってどういう人か」ということが重要であり、一般的な評価はどうでもいいと思っていた。他人にとって、あるいは客観的に見てどうであれ、俺にとって価値がある人は価値があるのである。どんなに凄い人でも、俺にとっては無価値であり得る。逆に、誰からも嫌われるような凶悪な犯罪者が、俺にとっては最良の友人になることもあり得る。
たとえば、AとBという人がいるとする。普通の人の能力を100とすると、Aは70、Bは60の能力しかないけど、AとBが組んだ場合は、長年の付き合いや相性の良さによって、二人とも120相当の能力を発揮するとしよう。そしてAとBは一生パートナーとして組んでやっていくものとする。さらに、AとBは地元の埼玉県越谷市で働く場合、それぞれ30ほど能力の上積みがあって、二人はずっと地元にいるものとしよう。
さて、このAとBは無能だろうか。テストなどによって客観的な指標を求めれば、能力値は70、60なので「無能」という評価が下されるはずである。でもそれに何か意味があるだろうか。俺は明らかにどうでもいいことだと思う。何の意味もない評価だと思う。なぜなら実際には、二人とも150相当の高い能力を発揮して生きていくからである。そして、AとBが客観的に見てどうであれ、AにとってBは明らかに価値がある人だし、BにとってのAもそうである。
もし自分の環境を捨てて生きていくならば、客観的な能力と指標が全てである。親兄弟や友人、地元などのしがらみを捨てて、世界を股にかけて大企業を転々とするような生き方をするとしたら、学歴、資格、IQ、協調性などといった客観的なものがもっとも重要になるかも知れない。
でも多くの人は、自分に与えられた固有の環境からそれほど離れることはないはずだ。誰とも違う自分だけの人間関係とか、地元とか、いろんなしがらみを抱えて生きていくのである。そういう大多数の人にとって、こうしたしがらみを取り払った「客観的な能力」にどれほどの意味があるだろうか。
運命として人に与えられた環境は、誰とも異なる固有のものであり、その人の個性のようなものだ。それは自分の個性ではないと感じるかも知れないけど、自分だけが持っているものであることに変わりはない。それが生物学的な運命であれば「個性」と呼び、社会的な運命であればそう呼ばないのかも知れないけど、本質的な違いはない。それは世界中の誰とも異なる、その人だけに与えられた運命であり、固有性である。
有能そうに見えても大したことを成さない人がいる。こういう人は自分の運命、つまり自分に与えられた環境の固有性を生かすのが下手なんだと思う。客観的なテストをすればその人は有能に見えるかも知れない。でもこの人は実際には大したことを成さないのだから、本質的な意味で無能そのものである。
凄さというものは目に見えるとは限らない。どう見てもパッとしないし、面白いことも言わないし、どんな知能テストをやってもしょぼい結果しか出さないけど、仕事はできる、というタイプの人はたしかに存在する。この人は、自分の環境から切り離された個人として見たら無能なのかも知れないけど、その環境に結びついている限りは有能である。たぶん、知人・友人のネットワークを使うのがうまかったり、一般性がなくてローカルだけど有益な知識をたくさん持っていて、それを生かすのが得意だったりするのだろう。世の中には確実にこういう人がいる。俺みたいに言うことだけは達者な奴が、実際に仕事をして価値を生み出せるタイプの人間かは分からない。
新約聖書でもキリストがこう言っている。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
マタイによる福音書 第7章
だから俺は、結果を見て人の能力を判断することが多い。ダメそうに見える人でも結果を出しているなら、それは凄さが見えにくいだけなのだと判断する。結果には人が思っているほど偶然の要素は入ってこないものだと思っている。
さて、話がダラダラと長くいろんな方向に飛んだので、最後に俺が言いたかったことをまとめてみる。
・すごい人との付き合いは有益だけど、自分をよく知っている長年の友人との付き合いも大切である。これは倫理的な話ではなく、実益の観点からも「付き合いの長さ」というものには価値があるということ。
・人の客観的な評価というものに大した意味はない。その人は自分だけが持っている固有の環境のもとでこそ能力を発揮できるタイプかも知れない。また、他人にとってどうであれ、自分にとっては価値がある人というのは存在する。
・人の客観的な評価というものに大した意味はない。その人は自分だけが持っている固有の環境のもとでこそ能力を発揮できるタイプかも知れない。また、他人にとってどうであれ、自分にとっては価値がある人というのは存在する。
俺はネットのおかげですごい人や有名な人とたくさん知り合いになれたけど、これからもずっと古い友人や親兄弟を大事にして生きていきたいと思う。前からそう思ってはいたけど、これが正しいことだと改めて教えてくれたMに感謝したい。
階層の頂点は国家なのかしら??