先日の記事「正義は勝つ」から任天堂は勝つには多大な反響を頂きありがとうございました。最初に申し上げておきますが、この記事に寄せられた批判の8割は的を射ていると思います。「正義」という誤解を招く表現とか、セガ・マイクロソフト・海外市場など多くの重要なファクターについての考察が抜け落ちていること、PS〜PS2時代をひっくるめて「暗黒時代」などと乱暴に表現してしまったこと、などなど、頂いた批判の多くはまったく妥当なものだと思います。厳粛に受け止めたいと思います。
とは言え、僕はあの記事で取ったスタンスを変える気はありません。無知による誤りも、感情に歪められた不公平な見解も、減らす努力はしますが、ゼロにするのは不可能だし、そこまですべきだとも思っていません。
たかだか26の若造に過ぎない僕の意見になんらかの価値があるとすれば、それは客観性や正しさではないと思っています。そもそも僕は、ブログの記事というものはそれ単体で正しく完結している必要はそれほどなくて、記事に対する異論、反論、補足をすべて含めてなんらかの価値を生み出すことができれば、それでいいと考えています。重要なのは、間違いを誤魔化したり、異論・反論を封殺したりしないことです。
このサイトの文章は、オールドメディア(テレビ、新聞、本など)ではなく、インターネットという他の情報と密接にリンクしたメディアに載せられています。さらにコメント欄もトラックバック欄も解放してありますので、誤りは誰にでも指摘することができます。はてなブックマークでも多数の異論・反論が寄せられており、そこへもリンクを貼ってあります。僕はそれら全てを含めてひとつのコンテンツだと思っています。これは誤りを犯さないことよりも、誤りを犯しても大丈夫なようにしておくことを重視する、いわゆるフェイルセーフなシステムです。
半年前、「失われてない15年」という記事に以下のようなコメントを書きました。
僕のこのスタンスに変化はありません。僕はインターネット上ではひとつひとつの情報の妥当性はそれほど重要ではなく、メディア全体で「多様性」が保たれていること、それによって「複眼視点」が可能であることのほうが大事だと思います。では、そのインターネット上に存在する情報の総体に、僕が提供できる価値があるとすれば、それは何か。
僕の強みは薄っぺらな人生経験しか持っていないことです。経験を豊富に積んでいる人は、過去を現在と照らし合わせて、未来を予想することができます。歴史は繰り返すものであり、過去に何度もあったようなことが現在も起こっており、そして未来にも起こるでしょう。だから経験は価値あるものです。しかし、未来はつねに新しいものであるがゆえに、過去になかったことが起き続けます。そのとき経験は先入観となり、新しいものを察知する障害となります。
そんな中で僕にできることがあるとすれば、それは「問題提起」だと思っています。つまり、無知で思考パターンが確立していないことを逆手にとって、知識や経験の豊富な人が最初から考えもしないような見解を提示し、議論の俎上に乗せるということです。あの記事はまさにその典型的なもので、「正義が勝つから任天堂は勝つ」という鼻で笑うしかないような、バカバカしいとしか言いようがないほど単純な意見を提示しています。たとえ相手が小学生だとしても、「どうして任天堂は勝ったの?」という問いに「正義は勝つからだよ」なんて答えたらバカにされて当然でしょう。
では、任天堂の成功要因を分析するにあたって、「正義が勝つから」なんていうふざけた見解を本気で検討する人が世の中にどれほどいるでしょうか?特に長年ゲーム業界を見てきたり、あるいは作る側として業界の中にいたりした人ほど、最初から微塵も考えないと思います。現実を目の当たりにしてきた人は、誰もがそれぞれの正義や理想を掲げてきたことを見てきたでしょう。あるいは、誰もが多くの問題を抱え、誤りを犯してきたことを見てきたでしょう。そうした人々ほどこんな単純すぎる見解を忌み嫌い、否定したくなるのではないかと思います。あのkanoseさんにこんな批判記事を書かれてしまったのがよい証拠です。
しかし、僕の書いたあの記事は、はてなの人気エントリーに丸一日以上居座り、多数のニュースサイトやブログで取り上げて頂き、そのブログの記事のいくつかはホッテントリにも載り、結果としてすでに2万ほどのアクセスを頂いています。僕は勝間和代さんと違って、天下の日経に記事を書いたわけではありません。自分の過疎零細ブログにひっそりと載せただけです。僕の言葉に権威はありません。どうでもいい意見であれば、どうでもいいということであっさり決着が付くでしょう。そうならなかったということは、問題提起ぐらいの価値はあったのではないかと自負しています。
もう一つ。僕はあの文章で任天堂信者だと公言していますし、「信者の鏡」だとか「愛の文章」などという評まで頂いてしまったように、それほど客観的な文章を書こうとは思っていません。別に論文を書いているわけではないので、感情に基づく主張が混ざっていたところで問題があるとも思っていません。とはいえ、それが引き起こした事実誤認については批判されて然るべきです。PS期までひっくるめて暗黒時代などと呼んでしまったのは、我ながら信者バイアスかかってるなーとは思いますが、この箇所のように感情が明らかに事実認識を歪めているな、と納得したらその点は改めます。
僕は主観も感情も排斥せず、自分の思ったことをそのまま書いています。だから僕の文章には、単なる感情の表明にすぎない部分と、それなりに客観的な妥当性を持っている部分が入り交じっていますが、僕はそれでいいと思っています。インターネットはフェイルセーフなメディアであり、オールドメディアよりも発言者の誤りは許容されます。このシステムの上でさまざまな人が発言すればするほど「複眼視点」が強化されます。この自由と多様性こそがオールドメディアが持ち得なかったインターネットの長所であり、これによってインターネットはオールドメディアを越え、真実を見通すための最善の方法となるはずです。
世界は広く、因果の鎖は果てしなく続いていて、その全てを自分の視界に収める事なんて到底できはしません。僕にできるのは、自分の見たものや感じたことをネットに垂れ流す程度のことでしかありませんが、それによって自分が「複眼」のひとつとなることができるなら、それは十分に意義のあることだと思っています。
とは言え、僕はあの記事で取ったスタンスを変える気はありません。無知による誤りも、感情に歪められた不公平な見解も、減らす努力はしますが、ゼロにするのは不可能だし、そこまですべきだとも思っていません。
たかだか26の若造に過ぎない僕の意見になんらかの価値があるとすれば、それは客観性や正しさではないと思っています。そもそも僕は、ブログの記事というものはそれ単体で正しく完結している必要はそれほどなくて、記事に対する異論、反論、補足をすべて含めてなんらかの価値を生み出すことができれば、それでいいと考えています。重要なのは、間違いを誤魔化したり、異論・反論を封殺したりしないことです。
このサイトの文章は、オールドメディア(テレビ、新聞、本など)ではなく、インターネットという他の情報と密接にリンクしたメディアに載せられています。さらにコメント欄もトラックバック欄も解放してありますので、誤りは誰にでも指摘することができます。はてなブックマークでも多数の異論・反論が寄せられており、そこへもリンクを貼ってあります。僕はそれら全てを含めてひとつのコンテンツだと思っています。これは誤りを犯さないことよりも、誤りを犯しても大丈夫なようにしておくことを重視する、いわゆるフェイルセーフなシステムです。
半年前、「失われてない15年」という記事に以下のようなコメントを書きました。
僕は真実を理解するために重要なものは「複眼視点」だと思っているので、仮にこの「失われてない15年」で提示する視点が有効だったとしても、それは既存の経済学を否定することにはなりません。僕が矛先を向けているのは経済学でも、経済学者でも、政府でもありません。この複眼視点を破壊するものであり、多様性を破壊するものであるマスメディアです。
僕のこのスタンスに変化はありません。僕はインターネット上ではひとつひとつの情報の妥当性はそれほど重要ではなく、メディア全体で「多様性」が保たれていること、それによって「複眼視点」が可能であることのほうが大事だと思います。では、そのインターネット上に存在する情報の総体に、僕が提供できる価値があるとすれば、それは何か。
僕の強みは薄っぺらな人生経験しか持っていないことです。経験を豊富に積んでいる人は、過去を現在と照らし合わせて、未来を予想することができます。歴史は繰り返すものであり、過去に何度もあったようなことが現在も起こっており、そして未来にも起こるでしょう。だから経験は価値あるものです。しかし、未来はつねに新しいものであるがゆえに、過去になかったことが起き続けます。そのとき経験は先入観となり、新しいものを察知する障害となります。
そんな中で僕にできることがあるとすれば、それは「問題提起」だと思っています。つまり、無知で思考パターンが確立していないことを逆手にとって、知識や経験の豊富な人が最初から考えもしないような見解を提示し、議論の俎上に乗せるということです。あの記事はまさにその典型的なもので、「正義が勝つから任天堂は勝つ」という鼻で笑うしかないような、バカバカしいとしか言いようがないほど単純な意見を提示しています。たとえ相手が小学生だとしても、「どうして任天堂は勝ったの?」という問いに「正義は勝つからだよ」なんて答えたらバカにされて当然でしょう。
では、任天堂の成功要因を分析するにあたって、「正義が勝つから」なんていうふざけた見解を本気で検討する人が世の中にどれほどいるでしょうか?特に長年ゲーム業界を見てきたり、あるいは作る側として業界の中にいたりした人ほど、最初から微塵も考えないと思います。現実を目の当たりにしてきた人は、誰もがそれぞれの正義や理想を掲げてきたことを見てきたでしょう。あるいは、誰もが多くの問題を抱え、誤りを犯してきたことを見てきたでしょう。そうした人々ほどこんな単純すぎる見解を忌み嫌い、否定したくなるのではないかと思います。あのkanoseさんにこんな批判記事を書かれてしまったのがよい証拠です。
任天堂が勝っている理由はただ一点「宮本システム」にしかない - ハックルベリーに会いに行く
「正義は勝つ」から任天堂は勝つ - ぺったんぺったん
この辺を見て、ゲーム歴史修正主義という言葉が思い浮かんでしまった。id:setofuumiさんからは「俗流ゲーム史論」という素敵な言葉が。上の記事は、旧日本軍は悪いことを一切してない!ぐらいの勢いの捏造っぷりで、下の記事は旧日本軍の悪い部分は一切無視して功績のみを語るみたいな感じ。
任天堂伝説が生まれる背景って、こういった神格化が容易になされるところなんだなーというのを実感した。
俗流ゲーム史論 - ARTIFACT@ハテナ系より全文まるごと引用
しかし、僕の書いたあの記事は、はてなの人気エントリーに丸一日以上居座り、多数のニュースサイトやブログで取り上げて頂き、そのブログの記事のいくつかはホッテントリにも載り、結果としてすでに2万ほどのアクセスを頂いています。僕は勝間和代さんと違って、天下の日経に記事を書いたわけではありません。自分の過疎零細ブログにひっそりと載せただけです。僕の言葉に権威はありません。どうでもいい意見であれば、どうでもいいということであっさり決着が付くでしょう。そうならなかったということは、問題提起ぐらいの価値はあったのではないかと自負しています。
もう一つ。僕はあの文章で任天堂信者だと公言していますし、「信者の鏡」だとか「愛の文章」などという評まで頂いてしまったように、それほど客観的な文章を書こうとは思っていません。別に論文を書いているわけではないので、感情に基づく主張が混ざっていたところで問題があるとも思っていません。とはいえ、それが引き起こした事実誤認については批判されて然るべきです。PS期までひっくるめて暗黒時代などと呼んでしまったのは、我ながら信者バイアスかかってるなーとは思いますが、この箇所のように感情が明らかに事実認識を歪めているな、と納得したらその点は改めます。
僕は主観も感情も排斥せず、自分の思ったことをそのまま書いています。だから僕の文章には、単なる感情の表明にすぎない部分と、それなりに客観的な妥当性を持っている部分が入り交じっていますが、僕はそれでいいと思っています。インターネットはフェイルセーフなメディアであり、オールドメディアよりも発言者の誤りは許容されます。このシステムの上でさまざまな人が発言すればするほど「複眼視点」が強化されます。この自由と多様性こそがオールドメディアが持ち得なかったインターネットの長所であり、これによってインターネットはオールドメディアを越え、真実を見通すための最善の方法となるはずです。
世界は広く、因果の鎖は果てしなく続いていて、その全てを自分の視界に収める事なんて到底できはしません。僕にできるのは、自分の見たものや感じたことをネットに垂れ流す程度のことでしかありませんが、それによって自分が「複眼」のひとつとなることができるなら、それは十分に意義のあることだと思っています。
P.S
僕が任天堂を支持するのにははっきりとした理由があって、大雑把に言うなら「双方向性とインタフェースの重要性を一番理解しているのが任天堂だから」ということです。SCEにゲーム業界のリーダーたる資格がないと思っているのも同じ理由です(Wii&DSの大ヒットを見てインタフェースの重要性は嫌と言うほどわかったでしょうから、今後SCEも変わってくるかも知れませんけど)。
このテーマでも記事を書こうかと思っていましたが、あの記事が反響を頂いたおかげでゲーム業界関係者の方の意見をたくさん聞くことができまして、自分みたいな業界外の人間が偉そうなことを書くのもどうなんだろう、とちょっと迷ってます。この記事の本文の主張の通り、僕は「自重はダークサイド」派ではあるんですけどね。。
ところで、PSのデュアルショックのアナログスティックと振動機能って、64の3Dスティックと振動パックのパクリだと思っていたんですが、twitterでこんな意見を頂きました。
ちょっと調べてみた感じでは、デュアルショックの振動機能は振動パックのパクリ、というのが定説ではあるようですが、実際のところどうなんでしょうか?この点によって僕のSCEへの評価はガラっと変わってしまうので、詳細をご存じの方がいらっしゃったら教えて頂けると嬉しいです。
(さらにP.S)
振動パックという商品の発表そのものはもっと早かったので、SCEはアイディアをパクったということで非難されたのではないか、というご意見を頂きました。なるほど。アナログスティックに関しても似たようなものかも。
僕が任天堂を支持するのにははっきりとした理由があって、大雑把に言うなら「双方向性とインタフェースの重要性を一番理解しているのが任天堂だから」ということです。SCEにゲーム業界のリーダーたる資格がないと思っているのも同じ理由です(Wii&DSの大ヒットを見てインタフェースの重要性は嫌と言うほどわかったでしょうから、今後SCEも変わってくるかも知れませんけど)。
このテーマでも記事を書こうかと思っていましたが、あの記事が反響を頂いたおかげでゲーム業界関係者の方の意見をたくさん聞くことができまして、自分みたいな業界外の人間が偉そうなことを書くのもどうなんだろう、とちょっと迷ってます。この記事の本文の主張の通り、僕は「自重はダークサイド」派ではあるんですけどね。。
ところで、PSのデュアルショックのアナログスティックと振動機能って、64の3Dスティックと振動パックのパクリだと思っていたんですが、twitterでこんな意見を頂きました。
販売タイミングは振動パックが先だけど、デュアルショックは半年しか発売がずれててないから開発はほぼ同時進行だったと考えるべき。たった半年で入力デバイスを後だしで開発/販売出来るほどゲームハード作りは甘くないよ
ちょっと調べてみた感じでは、デュアルショックの振動機能は振動パックのパクリ、というのが定説ではあるようですが、実際のところどうなんでしょうか?この点によって僕のSCEへの評価はガラっと変わってしまうので、詳細をご存じの方がいらっしゃったら教えて頂けると嬉しいです。
(さらにP.S)
振動パックという商品の発表そのものはもっと早かったので、SCEはアイディアをパクったということで非難されたのではないか、というご意見を頂きました。なるほど。アナログスティックに関しても似たようなものかも。
P.S 2
experienceを「エクスペアリアンス」とする表記につっこみを頂きましたが、たぶん本当は「イクスピアリアンス」ぐらいのほうが実際の発音に近いので、「エクスペリエンス」という表記はあまり好きじゃないんですよね。でも、こんな半端な表記するぐらいなら、定着してる「エクスペリエンス」のほうがいいような気がしてきたので、以後これで統一しようと思います。
ところで、「ユーザ・エクスペリエンス」という概念は今後ものすごく重要になるものだと思っているんですが、この言葉は長いし表記にゆれが生じやすいので嫌いです。適当な言い換えも思いつかないので、やむを得ずそのまま使っていますが、なんとかならないかなぁ。いい訳語があったら教えてください。
(さらにP.S)
頭文字を取ってUEとかUXとするというご意見を頂きました。Personal Computer → PC とか Internet Explorer → IE みたいなものもそれなりに定着してるし、たしかにこれもアリかも。
experienceを「エクスペアリアンス」とする表記につっこみを頂きましたが、たぶん本当は「イクスピアリアンス」ぐらいのほうが実際の発音に近いので、「エクスペリエンス」という表記はあまり好きじゃないんですよね。でも、こんな半端な表記するぐらいなら、定着してる「エクスペリエンス」のほうがいいような気がしてきたので、以後これで統一しようと思います。
ところで、「ユーザ・エクスペリエンス」という概念は今後ものすごく重要になるものだと思っているんですが、この言葉は長いし表記にゆれが生じやすいので嫌いです。適当な言い換えも思いつかないので、やむを得ずそのまま使っていますが、なんとかならないかなぁ。いい訳語があったら教えてください。
(さらにP.S)
頭文字を取ってUEとかUXとするというご意見を頂きました。Personal Computer → PC とか Internet Explorer → IE みたいなものもそれなりに定着してるし、たしかにこれもアリかも。




しかし、ゲーム業界が衰退期に入っているのは事実で、実は岩田はこの先代の教えを忠実に守っているわけではない。DSがヒットしたのは「脳トレ」などのいわゆる「シリアスゲーム」(実用性のあるゲーム)のおかげであり、Wiiでも「Wii fit」のような到底ゲームではないようなものが主戦力になっている。これらはゲームと呼ばれているだけで、本質的には明らかにゲームではないものであり(200万本以上の大ヒットとなった「えいご漬け」なんて誰が見たってゲームじゃない)、実際にはゲーム機で動くゲームでないものが売れているだけで、ゲームそのものは明らかに売れなくなっているのである。だから、任天堂のつくっているものが本当にゲーム機と言えるのかは怪しい。
「秋川国際マス釣場」というところでバーベキューしてきました。